2020年04月10日
4月10日(金)
今日は生きていれば、兄の90歳の誕生日だった。
昔、老人会の方が4月10日が結婚記念日だった。
昭和34年4月10日、昭和天皇の結婚式だった。
その方は八田焼という窯元の子で、
八田焼は宮内庁に土器(かわらけ)を納めていた。
引き出物に使いたいと具申したが却下されたらしい。
12月30日の朝、社会奉仕の記念品を持っていったら
「今日退院してくるのです。」と家族の方が。
予定通りその日退院したが、夜になって具合が悪くなり
12月31日に亡くなった。
80過ぎで老人会に入り、マージャン、グランドゴルフ、
カラオケを一緒に楽しんだ。
会社は近江絹糸という彦根が出所の会社だった。
東北から出てくる女工さんを迎えに行ったということで「ああ上野駅」
「誰か故郷を思わざる」「おゆき」「異国の丘」を歌っていた。
1月5日が葬儀だったが、老人会の新年会で参加できず
前日の通夜に伺った。
後ろの方から「鈴木さん」、振り向くと会社で一緒に仕事をした設計担当だった。
聴けば、甥にあたるということだった。
次の日、葬式後の挨拶は、彼が行ったそうだ。
私の母は1999年12月31日に92歳で亡くなった。
それもあって、この方の命日は忘れない。
昔、老人会の方が4月10日が結婚記念日だった。
昭和34年4月10日、昭和天皇の結婚式だった。
その方は八田焼という窯元の子で、
八田焼は宮内庁に土器(かわらけ)を納めていた。
引き出物に使いたいと具申したが却下されたらしい。
12月30日の朝、社会奉仕の記念品を持っていったら
「今日退院してくるのです。」と家族の方が。
予定通りその日退院したが、夜になって具合が悪くなり
12月31日に亡くなった。
80過ぎで老人会に入り、マージャン、グランドゴルフ、
カラオケを一緒に楽しんだ。
会社は近江絹糸という彦根が出所の会社だった。
東北から出てくる女工さんを迎えに行ったということで「ああ上野駅」
「誰か故郷を思わざる」「おゆき」「異国の丘」を歌っていた。
1月5日が葬儀だったが、老人会の新年会で参加できず
前日の通夜に伺った。
後ろの方から「鈴木さん」、振り向くと会社で一緒に仕事をした設計担当だった。
聴けば、甥にあたるということだった。
次の日、葬式後の挨拶は、彼が行ったそうだ。
私の母は1999年12月31日に92歳で亡くなった。
それもあって、この方の命日は忘れない。
Posted by 鮎摑み名人 at
08:07
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